2018年5月19日公開
⏲99分
名優・山﨑 努と樹木希林
円熟の夫婦を俊英・沖田修一が描く人生が愛おしくなる珠玉の物語
画家 熊谷守一 94歳
もっと生きる。もっと描く。
■こんなにも人生は、豊かで愛おしい―――。
魅惑の初映像!山崎努が伝説の画家・熊谷守一に
画家・熊谷守一とその妻を、名優・山崎努×樹木希林の最強タッグが演じた注目作。洋画家・熊谷守一。文化勲章と勲三等叙勲を辞退、庭と動植物を愛した伝説の画家の晩年を、山崎努が演じる映画『モリのいる場所』。山崎努&樹木希林、稀代の名優が夫婦役で初共演する本作。『南極料理人』『横道世之介』などの沖田修一監督がメガホンを取り、結婚52年目を迎えた老夫婦の夏の一日をユーモアを交えて描き出す。
昭和49年の東京。30年間自宅の小さな庭で草花や生き物を観察し、絵に描く画家モリ(94歳)と、その妻秀子(76歳)。52年の結婚生活同様、味わいを増した生活道具に囲まれて暮らすふたりの日課は、ルール無視の碁。そんなふたりの生活にマンション建設の危機が…。陽が差さなくなれば生き物たちは行き場を失う。モリと秀子の選択とは―――。
特別映像では、守一を毎日撮りに来るカメラマンの藤田くん(加瀬亮)とその弟子・鹿島くん(吉村界人)、老夫婦の身の回りの世話をする姪の美恵ちゃん(池谷のぶえ)や隣人夫婦らが熊谷家に集うなか、守一に文化勲章受賞の知らせが。「どうします?」と尋ねる秀子に、しかし熊谷は「いい(いらない)」とポツリ。熊谷がアリが巣食う地面に寝転び、カエルを追って這いずり回る様子や、秀子と碁を打つシーン……。緑が生い茂った庭の美しさも相まって、日常の中の何気ない風景が輝いて見える。
この「モリのいる場所」は、今までにない、映画でした。映画は生の演劇より、気持ちの奥底までは伝わらないと思っていましたが、この映画は予想をこえ、人の心の深いところを映画で現せた、すばらしい映画でした。ワーズワースの言葉に 簡素な生活 高き想い という言葉がありますが、モリは肩肘張ったそんな思いもなく、ただただ自分が大事と思うことだけをし、好きに生きていました。文化勲章さえいらないと。夫婦を演じた山崎努さんも希林さんも同じで、おふたりが紡いできた役者人生かけてあえて、いらないところを捨て去り、にじみ出るような演技の自然体の間が実に心地いい。おふたりそれぞれの、集大成の傑作と思いました。
山崎努の代表作であるし、希林さんがそれを同志のように支えている、希林さんの遺言がつまっていると思いました。私も年配になってきて、余分な物をそぎ落としたそんな生き方に共感を覚えます。作品は山﨑・樹木の自然でみごとな演技に支えられて、熊谷守一の生きる様子をよく描き出しています。亡くなられた希林さんが、劇団の先輩で、憧れの人と言われていた名優・山崎努さんと共演されて、嬉しそうにインタビューに応えておられた。いわゆる大作でもなく、大型のシネコンでは上映されなかったが大きくしみじみとした、味わい深い邦画作品です。
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■映画ストーリー
画家の守一(山崎努)は、草木が生え、いろいろな種類の生きものが住み着く自宅の庭を眺めることを30年以上日課にしていた。妻と暮らす守一の家には、守一の写真を撮る若い写真家の藤田、看板を描いてもらおうとする温泉旅館の主人、隣人の夫婦など、来客がひっきりなしだった。
★映画チェック★
名優・山崎努が主演を務め、『横道世之介』などの沖田修一と『キツツキと雨』以来に組んだドラマ。亡くなるまでのおよそ30年にわたり、庭の動植物を観察して描き続けた洋画家・熊谷守一をモデルに、晩年のある夏の1日を描く。山崎に熊谷のことを聞き、老画家を主人公にしたオリジナルストーリーを作り上げた沖田の脚本と演出、自身が敬愛する画家にふんする山崎の演技に期待が高まる。
■スタッフ
監督・脚本: 沖田修一
製作年:2018年
製作国:日本
日本公開:2018年5月19日 (シネスイッチ銀座、ユーロスペース、シネ・リーブル池袋、イオンシネマほか)
上映時間:1時間39分
配給・制作:日活
制作:ダブ
■キャスト(俳優)
山崎努
樹木希林
加瀬亮
吉村界人
光石研
青木崇高
吹越満
池谷のぶえ
きたろう
林与一
三上博史
他
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94歳 画家
熊谷守一(くまがい・もりかず)…洋画家
1880(明治13)年-1977(昭和52)年
岐阜県 恵那 えな 郡 付知 つけち 村に生まれる。1897(明治30)年上京。1900(明治33)年、東京美術学校西洋画科撰科に入学し、黒田清輝、藤島武二らの指導を受ける。同期に青木繁、和田三造らがいる。1904(明治37)年に同校を卒業。1909(明治42)年には《 蝋燭 ろうそく 》により第3回文展で褒状を受ける。翌年一時帰郷、1915(大正4)年に再上京するまで、材木運搬をはじめさまざまな仕事につく。上京後は二科会で発表を続け、二科技塾の講師も務める。1922(大正11)年、大江秀子と結婚。1928(昭和3)年に次男・ 陽 よう を、32(昭和7)年に三女・ 茜 あかね を、47(昭和22)年に長女・ 萬 まん を失くすなど、戦争をはさんで次々と家族の死に見舞われる。戦後は明るい色彩と単純化されたかたちを特徴とする画風を確立。97歳で没するまで制作を行った。住まいの跡地は現在二女、熊谷榧氏を館長とする「豊島区立熊谷守一美術館」となっている。
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